じゃがいも(その1)

2013年11月

 

農薬や添加物、地球汚染の危機が毎日のようにメディアで報道され、「この食材はいったいどういう風に作られているのか? これを食べた時の人体への影響は?」という、食の安全に対する意識が消費者の中で急速に生まれつつあります。こういった声に答えるべく、ベルギーのワロニー地方では自治体と農家が一体となり、「優良ジャガイモ」の生産へ取り組んでいます。フリッツの国ベルギーに不可欠なジャガイモ。日本語で「馬鈴薯」と呼ばれる、今ではあまりにもポピュラーなこの野菜の歴史を調べました。

 

 

ジャガイモの起源

ジャガイモはアンデス山脈の周辺で偶発的に発生したらしい。ボリビアとペルーの境界にあるチチカカ湖周辺の高地では、パパ(papa)と呼ばれたジャガイモの原種とトウモロコシ3千年も前から耕作され、人々の貴重な食糧となっていた。

 

ペルーの海岸沿いで発見された、紀元前200年頃の水差しの表面にはジャガイモと思われる模様があり、インカ帝国時代と推定されるジャガイモの形をした壺も見つかり、そにはジャガイモの芽が精密に彫り込まれている。すなわちこれは、いかにパパが人々の生活に密着していたかの証拠である。

 

紫の花をつけ地中にクルミ大の赤い実をつけるパパを、彼らはどうやって食べていたのだろうか? どうやら現代と同じように、茹でたり、焼いたり、砕いてから乾して使っていたと思われる。インカ族はその保存法も心得ており、チチカカ湖の凍った水に幾晩も漬けた後、太陽で乾燥させた。こうすると軽石のように気孔のある乾いたものとなる。これは日持ちがよく、食べる時は再び水に浸しさえすればよかった。

 

 

長い長いジャガイモの旅

スペイン人による16世紀の新大陸発見まで、旧大陸の人々はジャガイモを知らなかった。エル・ドラド(黄金郷)を夢見たコンキスタドール達の新世界征服により、旧大陸には宝石や貴金属などと共に多くの農作物が持ち込まれてきた。

 

新世界の農作物には、カカオ、タバコ、綿、トウモロコシ、トマト、コカ、カボチャ類、そしてパパという地下塊茎部分を食べる植物などが挙げられる。特にパパはおいしくて保存がきき、しかも虫がつきにくい植物なので、塩漬け食品のみの単調な食事になりがちだった船旅に適していた。こうした利点をもつパパが、船乗りによって世界中に伝わっっていった。

 

スペイン:

冒険家ピサロ兄弟がペルーから持ち帰った財宝は人々を驚嘆させた。が、パパの入った袋は修道士以外の誰の気もひくことはなかった(1535年頃)。

アンダルシア地方セヴィリアの修道士達は施療院の庭でせっせとジャガイモを作り、それは患者や貧乏人の食料として大いに役立っていた(1550年頃)。ジャガイモはスペイン語で「バタッタア」というが、アンダルシアでは今でも原語のまま「パパ」と呼んでいる。

 

イタリア

スペイン王フィリペ2世が、リューマチに悩むピオ4世にこのパパを贈り、それを食べて法王が奇跡的に治ったという噂により、1560年頃のイタリアではジャガイモ栽培が流行する。

しかし食べるというよりは観葉植物として人気があったようだ。スペインから来たパパは「小さなトリュフ(tartuffolo)」と名付けられ、これがドイツ語のジャガイモ(kartoffel)の語源となる。ちなみにジャガイモのフランス語は「土の中のりんご(pomme de terre)」が、これはオランダ語のジャガイモ「土のりんご(aardappel)」の直訳にすぎない。また、英語のpotatoはスペイン語のbattataからきていると思われる。

 

ベルギー

1588年、モンスの総監がローマ法王特使からいくつかの芋をもらい、彼はそれをフラマン人の有名な植物学者のド・ルクルーズ(Charles de Lecluse)に贈った。

 

ド・ルクルーズはこの“見たこともない植物”に非常に興味をもち、観察記録をまとめ『世にもめずらしい植物の話』という論文を発表した。この中で彼は芋をスペインのパパスという名で紹介、この植物の食料としての長所や痛風などへの薬効を述べている。ウィーンの宮廷庭園長の後、大学の教授となったド・ルクルーズは、他のヨーロッパの同業者との頻繁な文通の中でスペインのパパスを絶賛してやまなかった。ジャガイモをオーストリア、ドイツ、スイスに広めたことで、彼はジャガイモの恩人といわれている。尚、ベルギーは当時スペインの支配下にあり、ジャガイモはスペイン語のバタッタアがなまりパタットと呼ばれていた(現在でもジャガイモの別名としてベルギーではパタットと呼ぶ)。

 

 

アイルランド:

ヨーロッパでジャガイモを積極的に耕作し始めた最初の国がアイルランドだ。1556年には既に持ち込まれていたという説もあるが、パパは1663年にアイルランドに上陸した。この年が正確なのは、ペルーから帰途中のガリオン船がこの年アイルランド沖で座礁したからである。

 

それまでに何回もの苛酷な飢饉や英国との果てしない戦争のため、万年食料不足にあえいでいたアイルランド人は、躊躇することなくパパの耕作を始めた。幸いなことに、この地方には芋作りに最適な気候に恵まれていた。多湿で酷暑がない風土と豊かで深い土壌があり、ジャガイモは50年間で島の農民の常食となり、たちまち農業は全品耕作から一品耕作に変貌をとげたのだった。

 

ジャガイモは数世紀にわたりアイルランド人の食卓の中心の座を占めていたが、1845年、立ち枯れ病(ベト病)がジャガイモを襲った。この新大陸からきたバクテリアのため、平常に育っていた葉は数日でしおれ黒ずみ、芋は腐敗し悪臭絶えがたく、この被害はアイルランド中の畑を全滅させるほどであった。この飢饉の犠牲者は100万から300万ともいわれた。おびただしい農民が家を追われ離村し、イギリスやアメリカに向けて移住した。アメリカのケネディー家もこの時代にアイルランドを離れた移民の子孫である。

 

イギリス

エリザベス女王に植民地を作るよう命じられた長老派の人々は、北アメリカ東海岸バージニアに入植。ところが、理想と使命感に燃えた彼らを待っていたのは苛酷な食糧事情だった。そんな折、海賊フランシス・ドレイクがスペインとの海戦からの帰途、1577年バージニアに寄港。ドレイクは彼らに戦利品の中の一つであった芋の袋をいくつか恵んでいった。餓えをしのいだ人々が、1586年の本国帰還に際し持ち帰ったものは、船倉いっぱいの芋であったのはいうまでもない。

 

こうしてロンドンに渡ったジャガイモは「さつまいも」と区別するため「バージニアのいも」と呼ばれたが、当時猛威をふるっていた飢饉にもかかわらず、一部の植物学者以外には見向きもされなかった。その理由の一つは英国のアイルランドに対する「優越感意識」と考えられる。なぜなら、アイルランドを「属国視」していた英国は、アイルランド人の日常食になりつつあったジャガイモを無精者の卑しい食物とみなしたのだ。家畜のエサと蔑まれていた「バージニアのいも」が、英国農民に受け入れられたのは、それから150年も後のことである。

 

ドイツ

 カトリック系のオーストリア・スペイン連合軍と、プロテスタント系のドイツ軍の間で、1618年三十年戦争が始まった。スペイン兵の食糧箱に入れられたバタッタアは、この時初めてザクセン地方に持ち込まれ、それ以降ドイツでのジャガイモ栽培は他の農作物をおさえて飛躍的に発達していくことになる。

 

それにはこの地下茎植物の価値を評価し、積極的に取り入れる政策をとった二人のプロシア王の名を挙げなければならない。1702年、フリードリッヒ1世は、罰を科してジャガイモの食用を義務付け、続くフリードリッヒ2世はジャガイモ栽培をしない農家は『鼻と耳をそぐ』という法令を出した。それまでは「ジャガイモ栽培は土地を痩せさせる」と農民に意味なく嫌われていたが、この法令によりジャガイモが量産され、プロシアは七年戦争の間、兵隊と囚人を食べさせていくことが出来たのだった。

 

フランス

イタリアそしてスイスからと、ジャガイモは国境に近いドーフィネ地方を通してフランスに姿を見せ始めるが、誤解や頑固な偏見により、この植物は珍しもの好きな個人の庭で作られる程度であった。

1625年と1629年という悲惨な食糧難にも拘わらず、ジャガイモはフランスでは無視されるか家畜のエサという惨めな立場におかれる。更に追い打ちをかけるように、ブザンソンの高等法院は、この地の果てからきた芋を「ライ病」の元凶と決めつけその栽培を禁止してしまった。

 

フランスがやっと真剣に農作物についての心配を始めたのは、1770年から数年間続いた深刻な食糧不足のためだった。ブザンソンの学士院はついに『飢饉の時に豊富に収穫できる植物とその調理法』という題で、食糧不足の解決策を公募することに決めた。

 

受賞者は、アントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエ、35歳の薬剤師であった。ジャガイモは彼が長いこと温めてきた、とっておきの農作物だった。15歳で薬局に奉公、その後見習いとしてパリに行き、1757年薬学兵として七年戦争に赴いた。

 

プロシアで捕虜になった時、彼は生涯の道となる“ジャガイモ”と出会うことになる(といっても捕虜にはこれしか配給されなかったのだが)。20歳のパルマンティエはこの植物の計り知れない恩恵をすばやく理解、復員後、王立廃兵院での仕事を続けながら《この地下塊茎植物こそが飢饉から人を救うもの》というゆるぎない信念のもと、コツコツと実験や研究を重ねていたのだった。

 

もちろん彼の論文は大喝采と賞賛をもって受け入れられたが、この新参の芋はあくまでも“兵隊や貧乏人そして囚人の食物”と信じている貴族や裕福な階級には何の影響も与えなかった。彼は当時の日記に次のように書いているジャガイモは貧しい人の食卓に載るのと同じように金持ちの食卓に載らなければならない』。 そこで彼は“我がジャガイモ”に陽の目を見せるべく勝負に出た。

それは、ルイ16世に何も生えそうもない痩せた土地を願い出ることだった。不毛の土地という条件に固執したのは、ジャガイモが人類を飢饉から救うなら、苛酷な条件で育たなければ意味がないからだ。

1786年、奇跡は起こった。サブロン(砂の土地という意味)は豊かな緑で被われ「サハラ砂漠に芽が生えた」と人々は感嘆の声をあげた。彼はジャガイモの可憐な花束と籠いっぱいの収穫物を持ってヴェルサイユに赴き「殿下、もはや飢饉はありません。これをフランス国土の10分の1に植えさえすれば!」と熱意のこもった口調で告げたのだった。

「ああ、パルマンティエ氏よ! あなたのような素晴らしい方にはお金で報いることはできない。その心は金銀にも勝る。さあ、私と握手をして王妃にキスをしなさい」。王に認められ王室の食卓にのぼったジャガイモを貴族達が見逃すはずはなく、彼の作戦は図星となったのである。

   

参考資料:

  Les légumes        Du May

  Le meilleur et le plus simple de la pomme de terre

                 Joël  Robuchon著   Le livre de poche