チーズの話 パート②

2015年3月


 

『人類が狩猟から牧畜生活へと移り定住を始めたことで、家畜の乳が凝固することが偶然発見された。これがチーズの誕生で、新石器時代のことと推定されている。この後、古代ローマ時代に、動物の「凝乳酵素」でチーズを固まらせるという高度な技法が考案され、チーズは身近なものとなった。高い文化水準をもったローマ帝国の崩壊後、知的・文化的な指導者になったのは修道院であった』と、ここまでがパート①の要約です。

 

いわば「チーズの赤ちゃん」がどのようして「チーズの成人」になったのか?というのが今回の話。パート①はバックナンバーの2012年8月号です。

 

 

美食の立役者チーズとワイン

チーズとワインの相性が絶妙によいとされるのは、なぜであろうか? 

これは、チーズとワインが共に宗教の式典に不可欠であったことに関係している。

人間が作り出した食物にパン、チーズ、ワイン、ビールがあり、特に後者の3つは修道院で完成されたものである。修道院(又は僧院)の僧たちは、ぶどうの木を植え、苗の選択、枝の剪定と、ワイン醸造の技術改良に情熱を注いだのだった。(シトー修道会の僧たちの丹精なくしては、今日のブルゴーニュのぶどう畑はない、とも言われている)。

ワイン作りと同様に、僧たちはチーズの複雑な熟成方法も編み出した。

それ以前のチーズは「フレッシュ・タイプ」、つまり乳を乳酸発酵させただけのドロドロのものや、それを凝固しただけの代物であったが、僧たちは固めたチーズを、水や地酒で洗ったり、塩をもみ込んだり、定期的にその上下を返したりと、いたれりつくせりの世話を惜しまなかった。そして更に、それらを暗い穴倉で発酵熟成させ、じっくりとその成長を見守ったのである。こうして、冷蔵庫のない時代の 余った牛乳の始末方法だっただけのトロトロのチーズを、より保存のきく、より美味しいチーズへと変身させたのだった。

 

 

完成された、たぐい稀な地チーズがどのようにして世に出たのか?  

ヴェネディクト修道会の祖サン・ブノワが制定した戒律には、パン・チーズ・ワイン・ビールの取り扱いが細かく決められおり、「チーズは式典・行事の後の食事の大切な締めくくりとして供する」と規定されていたことも要因といえるだろう。土を耕し、祈りに生きる修道僧の生活にワインとチーズは切り離せないものであった。

また、当時の大修道院間の交流が驚くほど頻繁だったことにも関係がある。知識欲豊かな僧から僧へとチーズ作りの秘伝が伝わったのは想像に難くないことだ。こうしてチーズ街道は、スイス、フランス、ライン河流域、フランドル地方、そして海を渡りイギリスまでと延びていった。ちなみに、イギリスの名品チーズ「スティルトン(Stilton)」は、イタリアの「ゴルゴンゾーラ」やフランスの「ロックフォール」と同様の青カビチーズである。口の肥えたイギリスの僧が、大陸から大事にもって帰ってきた「めっぽう旨いチーズ」を、どのように苦心して再現したかを想像してみると、「スティルトン」に対する見方もまたちがってくることだろう。

また、修道院製のチーズ造りに遅れること数百年、酪農家自身がチーズ製造者へと変わったことが、チーズの需要と供給を大いに増すことになった。山岳地帯に住む酪農家達は協同組合を作り、各酪農家(又は各村単位)がミルクを持ち寄り、共同でチーズ製造に当たるという画期的な事業を起こした。このことが、スイスの「グリエール」、フランスの「ボーフォール」、「エメンタール」、「コンテ」といった、いわゆる巨大なチーズの出現につながることになる。





歴史に残る修道院チーズや比類なきチーズ達

名品チーズと賛えられ、現在も A.O.C.に輝く、当時のチーズの一部を時代背景やエピソードと共に紹介しよう。


① マンステール(Munster

アルザス地方のチーズ、修道院チーズの代表格。マンステールとはラテン語のMonasterium(フランス語:Monastère 修道院の意)からきている。この地方を支配していた代々のロレーヌ公爵の好物だった。


② ブリ(Brie de Meaux)

シャルルマーニュ大帝(カール大帝)の治世年代記には、Ruèl-en-Brieの小修道院で作っていたチーズを大帝が初めて試食、帝を非常に満足させたとある(774年)。

シャンパーニュ地方のある貴族の会計報告に、ブリをフィリップ・オーギュストに届け、彼はそれを宮廷の貴婦人達への年頭の贈物としたとある(1217年)。

ナポレオン失脚後のウイーン会議で、フランス大使タレーランはブリを推薦。50余りのヨーロッパ各地の名チーズを押しのけ「チーズの王」となった(1815年)。

 

③ ロックフォール(Roquefort

同じくシャルルマーニュ大帝の年代記。大帝がある領地を通過した時、そこの司教がパンとチーズで歓待した。チーズの青い部分をナイフの先でこそぎながら食べている大帝を見た司教が「恐れながら閣下、それでは一番の旨い部分をお捨てになることになります」と忠告、大帝はその忠告に従った。以後、大帝はこの青い筋入りのチーズを、毎年2ケース彼の館(エクス・ラ・シャペル=アーヘン)に届けるようにと命じた(800年頃)。

シャルル6世がアベロン(ミディ・ピラネー地方)の住民に対して「洞窟内での昔ながらのチーズの熟成に専売の特許を与える」という勅許状を出した。この権利はその後も代々の王(フランソワ1世、ルイ13世、ルイ14世、ルイ15世)が承認することになる。

 

④ マロワル(Maroille

北フランスのカンブレイ地方、マロワル修道院の司教が地元でクラクニョンの名で知られていたチーズを、塩水で洗い時々ひっくり返しながら熟成させる方法を考え出した(960年頃)。

「雌牛を所有している領地内の村民は聖ジョン(6月24日)にチーズ作りを始め、聖レミ(10月1日)には納めること」というお触書が立った(1174年)。3ヶ月間熟成されたチーズは、湿り気のある赤っぽい表皮で、コクのある特有の香気を放つ珠玉の一品であった。フィリップ・オーギュスト、ルイ11世、フランソワ1世、ヘンリー4世と歴代の美食家の王達はこれが届くのを待ち焦がれたという。


⑤ ゴルゴンゾーラ(Gorgonzola

秋にアルプスの山から平地に降りてきた移動牧畜中の牛を、途中のイタリアの村ゴルゴンゾーラで一休みさせた時に作ったブルーチーズ。以後この村はブルーチーズ作りの中心となった(879年頃)。


⑥ シャビシュ(Chabichou du Poitou

シャルル・マルテル将軍が南スペインから北上してきたサラセン軍をポワチエで撃退させた(732年)。この勝利は思いがけない勝利品をこの村に残すことになった。アラビア語のChabis”(山羊のこと)から、Chabis又 はChabichouと呼ばれる山羊の乳のチーズ作りである。

 

⑦ サン・マルスラン(Saint-Marcellin

これは伝説として伝えられている話。ルイ皇太子(後のルイ11世)が山中に狩に行った時、熊に襲われたところを二人のきこりに助けられた。昼食として分けてもらったチーズが、小型の丸いサン・マルスラン。それ以降、王はこのチーズを生涯買い上げ続けたという。


⑧ エポワス・ド・ブルゴーニュ(Epoisses de Bourgogne

この地方独特のマール酒(ぶどうの搾りかすで作ったブランデー)を加えた水(又は食塩)で洗い、最低4週間は寝かせるチーズ。ブリヤ・サヴァランやナポレオンはこれを「チーズの王者」と絶賛した。

⑨ カマンベール(Camembert

カマンベール村のマリー・アレルは一人の修道僧を自宅にかくまい泊まらせた。この僧が感謝の印としてマリーに「ブリ・チーズ」作りの秘伝を教えた。というのが一般的であるがどうもこれはマユツバっぽい。マリーの名が挙ったとしたら、その娘夫婦(トマ・ペネル)が果たした大きな役割があったからだろう。なぜなら娘の方が第1回 乳製品コンクール(1840年)で金賞を取り、夫がこのチーズを鉄道の開通式に臨席していたナポレオン3世に献上した。皇帝はこのチーズをいたく気に入り、パリに持ち帰った。これが上流社会で有名にならないはずがなく、鉄道という理想的な運搬手段も影響して、カマンベールの名は一気に広がった。しかし、このカマンベールの栄光に寄与したもう一人の人物がいるのを忘れてはならない。その容器の考案者イデルである。藁の上に載せて売られていたローカル色濃いチーズを、運びやすい丸い木の容器に工夫したのが彼であった。


⑩ パルミジャーノ・レッジャーノ(Parmigiano Reggiano

いわゆる「パルメザン・チーズ」で、イタリア産チーズの王様。650年頃にはすでに作られていたとされる。フランスのシャルル8世は、イタリア遠征の際この巨大なチーズの存在を知った。「その姿、風車の石の挽き臼のごとし、しかるにその味、繊細なり」と褒め称えた。


⑪ エルブ(Herve

塩水で洗いながら作るチーズ。ベルギー、アルデンヌ地方のエルブ高原は放牧に適した台地で、13世紀頃にはすでに作られていたという。

16世紀、ゲント生まれの神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン王カール5世は、ベルギーのアルデンヌ地方の小麦耕作を禁止する勅令を発した。このため、全農民は酪農を業いとするようになり、ベルギー最古のチーズが本格的に生産されるようになった。

エルブ村長からナミュールの総監あてにエルブ・チーズが贈られた(1693年)。

 

 

 

21世紀のチーズのゆくえ

ウインストン・チャーチルに「265ものチーズを作っている国は、一筋縄でいくはずがない」と言わしめたフランス。その多種多様なチーズ作りにも、工業化の波は押し寄せている。

あれほど熱望された修道院や酪農家製の「手作りチーズ」も、20世紀になると工場製の「量産チーズ」にだんだんと市場を奪われるようになった。1872年、初の工場製カマンベール「Le petit」が誕生。このチーズは多くのコンクールで、軒並み金賞をさらうほどの出来栄えだった。しかしその一方、1953年、ストレザ条約がフランス、イタリア、オーストリア、スカンジナビア、オランダ間で結ばれ、「パルメザン」、「ロックフォール」、「ゴルゴンゾーラ」などの、国家的ともいえるチーズを模倣から守ろうという動きも始まった。

 

最近では「手作り」か「工場産」か、という問題に加え、「生乳」によるか「殺菌乳」か、とEU対アメリカが激論を交わしている(EU圏内同志でも衝突しているが)。「生乳」には、乳を絞った時の衛生条件や環境によりいろいろな微生物が含まれている。これらの微生物には、乳を腐敗させたり、人体に良くないものから、それとは反対にチーズの味を高めるものまでと雑多である。

こういった多くの微生物の微妙なバランスを“自然のフローラ”と呼び、これが名品チーズ独得の風味を醸しだすことになる。「殺菌乳」は人体に不適当な菌を熱処理して殺すが、同時に“自然のフローラ”の一部も殺してしまうので、ほとんど無菌だが風味の少ない乳となる。


そもそも“チーズの旨さ”とは土地や天候、更には季節に密接に関係するものである。牛は一年中乳を出しているが、一年中同じ草を食べているわけではない。冬は家畜小屋の中で干し草を食べているのだから、夏と冬とではチーズの味が違うことになり、ここにチーズの醍醐味があるのだ。ところが、アメリカ的衛生基準ではメリハリのない画一的な味となってしまう。チーズの味のみでなく、手作りチーズ酪農家の存亡も考えると、このことについては、専門家やチーズ愛好家だけでなく、我々一般消費者も考えるべきではないかと思うのだが、いかがであろうか。

参考文献  Le monde des Fromages   Sylvie Girard    Hatier出版

          ・ Cuisine du Terroir   99 45    

                Cuisine Actuelle   96 5

 表紙の写真 ©Nivelle Collegiale parc 

 

※冊子ボナペティ20023月号より